今日は11年前と同じ金曜日です。
違うのは、今日は春らしいとても暖かい日でしたが、震災の日は雪模様で寒い日でした。
今でも忘れませんよ、あの日のことは。
当時、職場にいて2月末締め切りの書類を本社へ郵送するために宅配便で送った後でした。
急に携帯の警報が鳴ると同時に揺れ出して、その揺れが半端ない揺れ方だったんですね。
閉じ込められたら大変だと思い、窓を開けてから玄関のドアを開けに行ったのです。
事務所の外に出たところで、あまりの揺れの凄さに立っていられなくなり、ドアの取っ手につかまって、その場に座り込んでしまいました。
あの時は恐ろしかったですよ。
目の前にルート案内の青看板が立っているのですが、そのポールがグラグラ揺れてるんですよ?通常なら有り得ないですよね?
あのポールが倒れてきたらと思うと恐怖感に襲われました。
職場は3階建ての建物の1階で、玄関ポーチの下に私はいたのですが、ポールが倒れたら上の階に先にぶつかるとしても、崩れてきた壁や外壁に当たって間違いなく怪我をしていたでしょう。
倒れてこなくて本当に良かったと思いました。
そして、職場の近くにある銀行のATMから警報が鳴り響いていました。
激しい揺れのせいで、盗難時の警報が鳴り響いたのですね。
あの時の揺れは何時になったら止まるのだろうと思うほどに時間が長く感じました。
揺れが収まってから、事務所に入ったのですが、あんなに揺れたのに上司の机の引き出しが開いていたのとロッカーが2㎝程ずれていただけでした。
物が落ちていたり、それこそロッカーが倒れているということもなく、逆にとても驚きましたね。
両親と、当時飼っていた10歳になる高齢ウサギのことが心配になり家に電話したら、棚という棚から物が落ち、散乱していて今片付けていると言われました。
ウサギは高齢で体調を崩していたのもあり、一番の心配事でしたので確認したら、急に元気になり餌をもりもり食べ始めたと。
神経質で臆病な子だったから、ケージの隅で震えているのではと心配だったのですが…元気を取り戻したのは良いことです。
でも、この子は震災の1か月後に亡くなりました。
この時、元気を取り戻したのは魂の最後の灯だったのかもしれません。
話しは戻りますが、とにかく、詳しい情報が知りたいと思い、パソコンから地震速報を見たら津波の情報が!
当時、上司は宮城県東部の客先を訪問していたので、慌てて携帯にかけるも当然つながらない。
こういう時に携帯がつながらないのが常なので、つながるのを待つしかない状態でした。
そうこうしているうちに余震が次々と起きて、まるで船酔い状態です。
パソコンで見ていたライブ情報では、津波で流された数百人の人が仙台の海岸に打ち上げられて倒れていると…。
なんてことだろうと思いました。
この方たちが、何とか助かってほしいと思いました。
定時まで職場にいて、その間、上司とは連絡が取れませんでしたので連絡ノートに状況を書いて帰宅しました。
いつもなら空いているはずの道路が、帰り道はとても渋滞していました。
この時、帰りにガソリンを入れることと食料と水を購入して帰らなかったことを、後でものすごく後悔しました。
翌日12日は、朝から断水していたので午前中の内に母を連れてスーパーやらドラッグストアやら回って購入してきました。
夜に断水する旨を市の広報車がアナウンスして走っていたらしいのですが、拡声器の音は拡散されるので何を言っているのかはっきり聞き取れず、わかりませんでした。
わかっていれば、夜のうちに空のペットボトルや漬物樽に水を汲んでおいたのに…。
どこの店も行列が出来、購入するのに時間がかかし、水は手に入らない。
仕方がないのでウーロン茶や麦茶のペットボトルを購入して帰りました。
その日の午後に、そういえば農家をしていた父の実家に井戸水があったはずと、思い出し父と一緒に水を貰いに行きました。
そうしたら、停電しているのでポンプを動かせず水が汲めないと言われて驚きました。
私は、福島市に住んでいるのですが、市の西側は停電していたのです。
中央寄りの住宅街に住んでいる私の家のある地域から、数キロ西に行った辺りから西部一帯が停電していたんです。
仕方がないので、帰ろうかといって父の軽トラに乗り込んだところで、例の原発が爆発したらしいとラジオが伝えてきたのです。
今でも忘れません、その時の父の一言が。
「福島は終わったな…」と、そう言ったのです。
私は、「そんなことないでしょう?」と言いましたが、その後のことを考えると終わったとは言えないまでも、放射能のことなど今でも引き摺っている部分があるので何とも言えません。
今でも新聞には毎日、県内各地の環境放射線測定値と、イノシシやキノコなど野生のものや農産物の放射能検査の結果、基準値が超えたものについて載っています。
あれから11年経ち、当時ほど放射線の影響におびえて暮らすということはなくなりましたが、その代わり、常に隣にあると言いますか日常的なものになっているような気がします。
水の話に戻りますが、親戚の家からの帰り道にある自動車販売会社で水道が使えるということで水を提供していることが分かり、そこで頂いて帰りました。
何故分かったのかと言いますと、帰り道に休みのはずの自動車販売会社にバケツや薬缶を持った人の行列が見えたからです。
あの自動車販売会社の方には、心の底から感謝しています。
本当にありがたかった。
その後、水道が復旧するまで3週間かかったのですが、その間の水は市内の停電地区外に住んでいる別の親戚の家にも井戸水があったのを思い出して、そちらから頂いてつなぎました。
市の給水車も来たのですが、1家庭当たりの給水量が決められていて、それではとても足りなかったので親戚の家で井戸水を使用していたのは本当に助かりました。
もう11年も前の話ですが、決して忘れることは出来ません。
私は、津波の被害を受けたわけではありませんが、知人の親戚の方や従兄妹の義親が津波の被害にあって亡くなっています。
原発事故で住むところを追われて避難したわけでもありません。
我が家が受けた被害というのは、棚から物が落ちてきたことと、外壁の塗装にヒビが入った部分があったところ、あとは3週間の断水です。
なので、あまり被災者という意識がありません。
と言いますか、本当に被災者ではないのかも。
ただ、あの震災で一瞬にして、生活が180度変わってしまうことがあるんだと思い知りました。
本当に何が起きるのかわからない「人生、一寸先は闇」とはよく言ったものです。
ここから先は、当時思っていた、ちょっと愚痴と言いますか文句です。
原発事故後に外出したらシャワーを浴びましょうと、やらたとテレビやラジオで言っていましたが水が出ないのにどうしろと?そう思っていました。
テレビを付ければ、二言目には外出したらシャワーを浴びれば放射能は落とせるから心配いりませんとか、断水しているので無理なんですが?
断水していたのは私が住んでいる福島市だけではないですよ?津波被害を受けた浜通りの方も断水していますよ?まして避難所なんて場所によっては簡単に水なんて手に入りませんよ?
ちょっと考えればわかりそうなものを!
あの当時は、言葉はとても悪いですが、この人たち馬鹿なの?と思っていました。
何しろ福島のテレビ局ですら、外出したらシャワーをって言っていたのですから。
どうやら同じことを思っていた人がいたらしく、あるニュース番組で視聴者からの要望をメールやFAXで募集したところ、断水しているのにシャワーは無理だからどうしたら良いのか?と送られてきたようです。
それに対しての回答は、ウェットティッシュで拭いても大丈夫というものでした。
……多少は、ましな回答でしたが、物流がほぼストップしている状態でウェットティッシュも手に入りにくい状態です。
大体、営業しているお店なんて無いに等しい状態でしたから。
何となく微妙な気持ちになりましたね。
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